目黒での家事代行あれこれ

2011年8月23日

大人の町目黒。そう、それは格調高い異国の香り。まさに目黒には家事代行がぴったりです。さて、あまり知られていませんが、目黒区が、東京府荏原郡目黒町と同碑衾町が合併して東京市に編入され、目黒区が誕生したのは昭和7年10月1日のこと。今日の目黒区に至る道のりには、多くの人びとの努力があった。目黒区誕生前夜から誕生までをたどってみる。

明治中ごろの東京は、雨が降れば銀座の大通りさえぬかるみ、「田植えができる」とまでいわれるありさまだった。鹿鳴館で毎日のように舞踏会はあっても、道路や水道などはまだまだであった。

東京市が近代都市として整備され始めたのは、日清・日露と勝ち戦が続いて国力が増大し、近代国家の首府としての自覚が出てからであった。産業が興り、会社や工場が建って地方から人が集まってくると、東京はすさまじい勢いで膨張していった。目黒の人口が関東大震災を契機にいっきょに増加したことは知られているが、東京市15区の人口はそれ以前に飽和状態に近づき、人びとは周辺町村へあふれ出した。
周辺町村に居を構え、市内へ通勤する人びとが増えると、道路拡幅や水道敷設、小学校増設などが町村の急務となった。中でも学童の増加に伴う小学校建設は、町村財政の大きな負担となった。昭和6年末の目黒町の町債額の5割以上、碑衾町では全額が小学校の建築や復旧のためであった。
このように町村に住み市内に通う「不在市民」が多くなると、東京市と隣接町村はもはや有機的に一体を成し、市郡の境は都市の発展にむしろ障害となっていった。
大正9年、都市計画法が6大都市に適用され、同11年には都市計画区域が告示された。東京市の場合、東京駅を中心に半径10マイル(約16キロメートル)、すなわち東京市15区と府下荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の5郡82町村、それに北多摩郡砧村と千歳村がその範囲であった。市内および第1から3圏に区分したうち、目黒町は第2圏、碑衾村は第3圏に属した。この区域決定により、隣接町村は大都市の構成員の地位を獲得したのである。また、後の市郡合併の範囲決定に大きな影響を及ぼすことになった。

続く